文学 美術 音楽 旅行についての鶴岡万弓の日記

近代、現代初頭の文学と、彫刻、絵画、浮世絵、建築などの美術が大好き。音楽ならクラシック!旅も好き!(現在、オーボエ専攻の学生です) それらの大好きな芸術に関して思ったことや、旅の事を記録として残しておこうと思いました。 そうして、同じ趣味を持つ方と繋がれたら嬉しいな、と思いブログを始めました!旅の記録は、どなたかの役に立ったり、「行ってみたい」と思わせるほどにその土地の魅力を伝えられれば、幸いです🌷

モネ『ルーアン大聖堂』は私にとっての、江戸川乱歩『恋と神様』②

私は、よく泣きます。素晴らしい作品に出会った時に。

なので、12月の旅行の美術館巡りも、今回も、涙と鼻水でぐずぐずでした。(き、汚い…花の都パリで、なんて事…)

でも、どの美術館に行っても、私みたいに泣いている人はいなかったので、やはり、私は変わってるのではないか、と思いました。(12月の旅行の話は、後日書こうと思います。)

 

【いよいよ対面】

私の原点との、予期しなかった対面…!前回の①で書いた、『印象-日の出』との再会の感動を幾重にも上回る、喜びにあふれた衝撃。

階段を降りてすぐ、驚きの余り、一度足が止まってしまい、その後スーっと引き寄せられるように、目見えました。(幸い階段が広いのと、人が少なかったので、誰にも迷惑はかけなかった。そもそも一方通行のその階段を降りているのは、私一人だった。)

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さっき泣いたはずなのに、もう泣いている。静かに、ダラダラ涙を溢して絵を凝視する私の姿は、異様だったかもしれません。

「ああ、やっと会えた…!ここに居たんだね…!」「まさか、あなたに会える日が、私の人生で来るなんて…!」「この幸福に耐えられない…私は死んでしまいそうです…いやこのまま死んだら、どんなに幸せだろう…!」「ああ、お会いできて、光栄です…いかでみ情の数にも足らん…まさしくそうです…。」

「幸福で死ぬ…?そんな発想に至れるほど、私は豊かな心を持つ人間になれたんだねえ、あなたに会えたお陰なんです…!」「ああ何て日なんだろう…!」「私の原点、私の神様…!」「今日、あなたに目見えた事は、私の生涯の思い出です…」

「あなたは私の神様なんです。」「私は今日、私の神様に出会ってしまったんです…。」「『神を見た犬』(ブッツァーティ)の静かで冷たい幸福感は、この喜びが吸収されて、しっかり骨に染みて落ち着いたら、分かるかもしれない。もうすぐで私は、神を見た犬になれるのかしら。のをわあおある とをあある やわああ!」

 

こんなような事を、思っていました。書くと、狂気ですね。自分でも思います。でも、記録のために、書き残します。

結局、あの高揚感は、未だに夢のように曖昧に漂っていて、骨まで染みていないので、私はまだ、神を見た犬の気持ちには届いていません笑

(神を見た犬の気持ちって何😂いつ使うのでしょうか?😂)

 

そして所々見受けられる、太宰治感。(『新樹の言葉』っぽいの、分かる方がいらっしゃいましたら、あなたも相当、太宰さんに教育を受けていますね…!!そんなあなたと、ぜひお話ししたい…!!)

やっぱり彼は、私の師匠です😂

あと、「のをわある とをわある やわああ」は萩原朔太郎さんの『青猫』より『遺傳』(傳は伝の旧字体。遺伝)で出てくる、犬の遠吠えです。いいオノマトペですよね。

「いかでみ情の数にも足らむ」も朔太郎さん。『氷島』より『殺せかし!殺せかし!』の一文です。

スタンダールの『赤と黒』っぽい箇所もありますね…。

 

この様に私は、いつも作品を鑑賞する時、今まで私が出会い吸収してきた作品と、その感情が凄まじい勢いで、記憶の中から吹き上げてきます。まるで突風の追い風に吹かれる様な爽快感を、いつも覚えます。この時私は、自由を感じます。想像/空想の自由。

今まで触れ合った作品が、それは単体でも十分面白く、喜ばしい出会いでしたが、私の記憶に保管されているそれらが、時代を越えて私の感覚の中で繋がってゆく面白さ、喜び、閃きの快感。

その喜びやときめきは、単体の出会いの時の二乗のごとしです。2倍、では済みません。だから、私は色々な作品にもっと出会いたい、と思うのです。文学でも美術でも音楽でも。哲学や倫理学、心理学の書籍も含まれます。(哲学などの書籍について、それらは、「芸術作品」ではないので、文学とは別ジャンルとして私は区別しています。が、勿論、優劣はないと思っていますし、興味深く、大好きです。)

 

 

全然、乱歩先生まで話が進まないですね😅でも次回からやっと、江戸川乱歩先生のお話です!③に続く

モネ『ルーアン大聖堂』は私にとっての、江戸川乱歩『恋と神様』①

私が初めて芸術に感動したジャンルは、絵画だった。小学校三か四年の図工の時間前、教室に早く着いたので、図工の教科書を見ていたら、一枚の絵に、目を奪われました。

モネの『ルーアン大聖堂』です。

バラ色の夕日を浴びて、夢のように輝く、大聖堂。こんな風景があるのか、一体どこに、誰が描いたの。様々な興味が湧いた。

しかも、その写真は、特別に紹介するための物でなく、美術家の年表のために代表作として、小さく載せられた写真に過ぎませんでした。それでも、私の心を掴み、動かしたのです。モネの眼は。

 

あの時から何年も経って、2023年1月13日。私はパリの学校のレッスン期間中のレッスン時間の合間に、「マルモッタン・モネ美術館」に行きました。

https://www.marmottan.fr/en/prepare-your-visit/admission/

(公式サイト。ここからチケット予約できますが、私は学生券を窓口で直接買いました。チケットの刻印は10:52。空いてました。

窓口の方が安いです。しかし入場者数が多い時は待たないといけないので、心配な方は、サイトで事前購入もありです。

けれども、ルーブルなどと違い、空いているので、タイミングが悪くない限り、窓口購入で良いと私は思いました。)

 

 

実は、そこにあの原点となった作品があるとは知らなかった私。去年2022年の12月14日-21日、美術館巡りを目的としたパリ旅行をした際、オルセー美術館に行き、そこで『ルーアン大聖堂』の他の時間帯の作品(『正面から見た扉口(茶色のハーモニー)』、『昼』)を観ていました。

「バラ色に染まった大聖堂」の作品だけがなかったので、てっきり、他の美術館へ貸出中なのかと思っていました。

 

ですから、私は感動と驚きの余り、どうしていいか分からなくなった程でした。

地下丸ごとワンフロア、モネの作品の展示スペースになっている、マルモッタン・モネ美術館。

その地下フロアへの階段を降りて、一番始めに鑑賞者が目にする作品が、私の原点である『ルーアン大聖堂』でした。

 

いよいよ、モネのフロア…!!!と、浮き立つ心に急かされるような足取りで降りると、「あ!!」「ここに居たんだね…!」私はぐずぐずと泣きました。

ルーアン大聖堂 ファサード(日没)』との対面です。

 

【ちょっと時間を遡って、対面の前。『印象-日の出との再会】

モネのフロアに行く前に、特別展示で、太陽をテーマにしたエリアがありました。

そこに、モネ『印象-日の出』もあったのですが、その作品に再会した時も、泣きました。

再会。そうなんです。一度、高校の時、世界史の授業で先生が、私達のクラスを、上野の国立西洋美術館の特別展「印象派展」に連れて行ってくださり、その時、私は『印象-日の出』に出会っているのです。

「また会えたね。会えるなんて思ってもいなかったよ。人生は、予測できない事態で溢れてますね。あれ、太宰さん…?みたいな事言ってる🥲」「私はあの時から随分変わったけど、あなたはちっとも変わらないですね。あの時も、今も、変わらない美しさで、人を惹きつけ、癒している。」

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笑顔で泣きながら、そんな事を思っていました。

側から見ると、怖いですね…。でも、周りの方は優しく、そっとしてくださいました。引いてたのかもしれない…なんとなく、他の鑑賞者との間隔が開いていった気がしてました…。

 

長くなりそうなので、続きは②で!

 

シェークスピア「嫉妬」は緑の目の怪物か、趣深い情緒か

シェークスピア『オセロー』より、「嫉妬は緑色の目をした怪物で、餌食にする人の心をもて遊ぶ」

高校一か二年の時に読んだ、『オセロー』。シェークスピアは本当に心理の推移を表現するのが上手いです。心理描写というより、移り変わりです。その心情変化による行動と、その行動が起こす負の連鎖。それが上手い。

どんどん泥沼にはまって行く登場人物は、明日の我が身…と思える程リアルで、理論的な心情変化です。「そうはならないでしょう…」と興醒めするような部分が、心情変化に於いては、あまりないんですね。

それ故に、私も嫉妬の恐ろしさを知っていた事もあってか、「嫉妬=恐ろしい。醜い」という固定概念ができていました。

 

しかし、最近日本文学、特に「詩」を読む事が増え、その固定概念が、変わりました。

 

 

吉井勇の短歌『嵐よりやや和かく胸を吹く 妬みにまさる趣きはなし』

彼は『ゴンドラの唄』(いのち短し、戀せよ、少女*おとめ)の作者です!

華族出身の耽美派。華やかでゆとりのある生活が生み出す、心の余裕。粋。唄からも分かるように、女性慣れした人で、これはもう、当時のおなごの黄色い歓声が聞こえてきますね。

 

ああ、「嫉妬」ってこういうニュアンスもあるのか。と、膝を打ちました。甘い。柔らかい。そして軽やか。流石、吉井さん。

私は歓声を上げる側でもなく、こういう唄を詠む側でもなく、この様な唄を広めて、みんながキャーキャー言う姿を見て楽しむ、特殊枠だと思っています。

唄が広まって嬉しいし、みんなが楽しそうで嬉しいのです😊🌷

 

続いて、大手拓次『藍色の蟇』より『鳥の毛の鞭』


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これは、いい…!すごく拓次さんらしい幻想!!私は吉井さんの唄より、こっちの方が好きです。

「嫉妬よ お前は優しい悩みを生む花嫁」…!吉井さんの甘さとは違う甘さ。前者は、現実的な甘さ。少し酸味もあるような。果物とかの甘さでしょうか。ハッキリと甘く、でもさっぱりとして、香り高い。高級な佐藤錦やイチゴ、リンゴみたいな?(高級水菓子を食べた事がないので、空想です😅)

 

後者は、掴みどころのない、甘さ。でも、甘さ自体は前者の果物より控えめで、ふわふわとしたひとつまみの綿菓子のような、口に含むと、すっと溶けてしまうような感じ。

 

シェークスピアは嫉妬の恐ろしさを教えてくれました。それは、他人から向けられるものとしての教訓として、これからも気をつけるものです。決して、自分が持ちたいものではありません。

ですが、日本の詩歌人が教えてくれた「嫉妬」。これはなんと、味わい深い情念でしょうか。

「嫉妬」への眼差しが甘いのであって、自分が持つのではないように感じます。あくまでも、その「嫉妬」を愛でる感覚が甘いのであって、「嫉妬」自体は自分の心に芽生える感情ではないのです。

「嫉妬」を事象/出来事として認識して、そこから生まれる感情や情念が甘かったり、「嫉妬」を愛でる感覚が甘いのです。

私は、彼らの言う「嫉妬」を、そう感じました。

 

私の辞書の中に、シェークスピアのニュアンスでの「普通の」嫉妬が①の意味で登録されているのならば、②に日本の詩歌人らのニュアンスを加え、この②の「嫉妬」は大事に、好きな感覚の一つとして、楽しみたいです💐

太宰治「色欲至上主義」という直球フレーズに笑った『チャンス』

太宰さんの『チャンス』。あまり有名ではないですが、すごく面白いエッセイ系の作品です。これも随分前に読みました。

 

「恋愛」という言い方は、太宰さん曰く、なんと当時新しく生み出された言葉なのだそうです。

 

当時、「恋愛至上主義」という概念が台頭し、その背景は、平塚らいてうの雑誌「青鞜」の出版でも分かる通り、女性の社会進出が影響しています。

恋愛至上主義」つまり、昔の、親や家同士で決められた結婚というものでなく、本人の意思による恋愛結婚という考えが生まれます。

 

彼曰く、「恋愛」は言い繕った言い方で、元々ある日本語で言えば、「色欲」🤣

 

彼は、他のエッセイでも、白樺派系を批判するとき、「あの人達は、愛を知らない。あなた方が知っているのは、愛撫だ」のような事を言っています。最高に太宰節、炸裂🤣

 

彼は、愛というものは、キリストの愛のようなものであって、とてもとても、普通の人にはできないような、大きな愛情、慈しみを指す。と言っています。

で、恋愛は、愛撫の方面。色欲だ。交合だ。と笑

 

『チャンス』これは、「恋愛はチャンスでなく、意志だと思う。」という彼の持論から取られた題名です。題名だけ読んで、内容を知らなかった私は、まさか太宰節炸裂のエッセイだとは思わず、終始笑いながら読むことになりました😂

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とっても短い作品ですが、文学的ブラックジョークが好きな方は、笑うこと間違いなしの作品です!!

「そんなに何も私を、にらむ事は無いじゃないか。恋愛女史よ。」

 

でも、最後の庭訓(教訓)の前の一文。そこがいいんです。さっきまでふざけてたのに、急に、本気を一瞬出すんです。ああ…これは…そういう所だよ…太宰…これはモテるの納得だよ…師匠…

と、さっきまで笑っていた私でさえ不意を突かれました。

(太宰さんのエッセイは、大抵男の感覚で読んでいるので、この不意を突かれたというのも、さすが師匠…ダメ人間だけど、頭いいし、面白い。モテるのはこういう所なんですね…!もっと教えてくださいいい!!!みたいな感じです。褒めてます。)

 

太宰さんのエッセイは、圧倒的に男の感覚で読んだ方が楽しいです。小説は、老若男女、どんな感覚でも楽しめます。

感覚を使い分けると、着眼点や感想が変わって、作品を多角的に読むことができるので、自然とそうやって読んでいました。

 

何と言いますか、自分の中に沢山人がいる感じです。性自認とかそういう問題でなく。多重人格が手っ取り早い説明でしょうか。でも、記憶とかは共通しているので、「演じ分けてる」だけだと思っています。もしくは「脳の使い方を変えている」のでしょうか。

作品を最大限に楽しむために、自分の感覚を変えて読んでいる方、私以外にもいらっしゃいますか?

 

夢野久作『ドグラ・マグラ』の可能性考察 現在の結論は16通り

ドグラ・マグラ』を読んだのは、大学三年の試験後すぐ。

ずっと読みたくて、少しずつ読み進めていたのだけれど、作中で大幅に動く時間軸に振り回され、「これはまとめて読まないと分からない…!」と気づき、試験後に一気に読む決意をしたのを今でもよく覚えています😂

 

試験後、一日中読み続ける日もあり、最後の方は徹夜して朝3時か4時頃だった記憶…6日間で一気に読みました。(何してるんだ私😂)

 

結局あれは、何通りもありますよね。現在の結論から言うと、16通り考えられました。

①胎児の夢説(これは心理遺伝がある事が前提)
*1)呉一郎、もしくは呉モヨ子の子供(第一世代とする)の胎児の夢。 2)彼らを祖先に持つ第二世代以降の胎児の夢 の2パターン。

②精神実験された主人公の手記(作中に出てくる『ドグラ・マグラ』を読んでる)説 (これは「心理遺伝を確かめる実験」なので心理遺伝の有無は、前提条件に含まれない)

*②において、1)主人公が本当に心理遺伝を持っていた場合と、2)無関係な人に思い込ませたらどうなるか、という実験の被験者 の2パターンがある。

 

2)の場合、主人公は、心理遺伝がある、と言い聞かされて、そういう症状が出るのか、という実験をさせられてる被験者(本人とは無関係な心理遺伝が、思い込みによって発症するのか、ということ。ブアメードの血という実験のように、思い込みで、症状が現れるかの実験。

*ブアメードの水滴実験も真偽不明らしいですが、例えとして出しています。)

③正木博士のその観察記録説

*ここでも②と同じ1)2)が言えます。

 

なので、今の私が覚えている可能性だけでも、基本が6通り。②にモヨ子ちゃんを加えれば、(彼女が心理遺伝をもっている、持っていない無関係な人。という組み合わせを入れると)、②1)2)の合計は4通り。

③も同様に4通り。(彼らの博士による「記録」なので、同じパターンになる)

②より、主人公等の「心理遺伝を持っているか、持っていないかの組み合わせパターンは4つ」と分かったので、①胎児の夢の1)2)も同様に4パターンずつ考えられる。(それぞれのパターンの、胎児の夢になるので)

したがって、

①1) 4パターン、2) 4パターン

②4パターン

③4パターン 合計16通り(計算合ってるかな…)

 

そして正木博士は一体どうなったのか…

これについては、読書中、起きた出来事の時系列をメモしておけばよかった…!!と後悔しています😢

自殺か逃亡か?

 

時系列整理のために、また読み直さないといけないですね😂チャカポコチャカポコ…ブウウウーーーーンンン…いつかまた読もう…

ドグラ・マグラ』について話せる方を、探しています!

もし、この記録を読んで気になった方がいらっしゃれば、ぜひコメントください!!色々な考察とその根拠が知りたいです!!

海と女/女性性について(三好達治、大手拓次、坂口安吾の作品より)

何年も前、安吾さんの『私は海をだきしめていたい』を読んだ。感想は、「安吾さんらしいなあ😂そういう所が大好き😂私も海をだきしめていたい」と思いました。

彼は、『文学のふるさと』でも『恋愛論』でも、「孤独」という事に着目していました。「孤独」と聞くと、大概の人は、寂しいとか、悲しい、と言います。

ですが、彼のいう「孤独」は、自分は「人間一匹」として存在している、一つの生命体に過ぎない、という意味に思います。

それは、自分と向き合うために必要な感覚であって、自分一人でないと、自分を見つめる事も分かる事もない、と言いたいのだと感じました。

そしてこの感覚は、生きるという事において大切であって、『堕落論』の最後のまとめに繋がるものだと、私は思います。

 

閑話休題😅

まず、『私は海をだきしめていたい』は、海と女性が、彼のイメージの中で重なる作品です。

そして、

 

大手拓司『藍色の蟇』の『しなびた船』


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冒頭「海がある、お前の手のひらの海がある」で始まります。私は「お前=女性(もしくは女性的な存在)」だと思いました。理由は、彼の作中に男が出てきた事がなく(「私」という主人公として、自身を出す事はある)、他の作品で、「お前」と呼ぶ相手は、女性(花嫁、女性的なイメージで装飾された薔薇など)であるからです。

 

でも、この作中で「お前」が、女と指定されていない限り、絶対ではありませんし、例外的に男かもしれません。そもそも人でないかもしれません。

ですが、この後、三好さんの詩を読んで、「お前=女」(もしくは女性的なもの)ではないか、という考えが強くなりました。

 

その作品、三好達治『測量船』の『郷愁』より


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「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」

 

拓次さんは、フランス語の知識があったのか、私は知らないのですが、(彼の没後出版の詩集序文で、北原白秋氏だったか萩原朔太郎さんだったか、どちらかの序文で、「フランスの作品を読み〜」というような事が書いてありますが、根拠のない事なので、何とも言えません。)

仮にあったとして、「mère(母)の綴りの中にmer(海)がある」(正確には、アクサンの有無はありますが…)ので、「お前の手のひらの海」の「お前」は、イメージ的に、母/女性的なもの、と彼はしたのではないか、と考えられます。

 

因みに、三好さんは東大仏文科ゆえ、安吾さんもフランス語の知識があります。

 

さて、三好さんは、「母≒海」。安吾さんも「海≒女」とそれぞれ印象を述べていますが、拓次さんはどうだったのか?私の死後、お会いできるのであれば、聞いてみたいです😂☺️

フランス語の知識の有無を置いておいても、三人の残した、海の女性性にまつわる作品が大好きです💐

 

何とも言えない、柔らかい切なさ、優しさを覚えるためです。何故でしょうか、海の広さと、母の優しさを重ねたくなるような感じ、といいますか。それが私には得られなかったもの、というのも大きいと思います。

だから、母の愛を、広く、大きな海に重ねたくなる。こんなに大きくて、広い、母の、ないしは家族の愛情が欲しかったんだな、幼かった私は、と。

願望故に、大きくしてしまう。それも幼少期の純粋な心が得られなかった愛情故、寂しさも、純粋で、大きい。

 

昔であれば、初めて見る、珍しい土地の出来事が、摩訶不思議に語られる、あの高揚感。今はネットなどのお陰で、そのような事はなくなってしまいましたが、例えば、幼少期にわくわくした遊園地に、大人になって行くと、「あれ、こんなんだったっけ…?」と、白ける自分に困惑する気持ち。

 

その様な、まだ見ないものへの期待。もしくは、初めて見たり知る/知った面白さの醒めない状態の、あの高揚感は、対象を大きく、面白く見せますよね。あの感覚です。私の、母の愛情を大きく、広くイメージさせるものは。

でも、今はもう、届かない(得られない)と分かっているので、その大きさを、遠くから、眺める感じです。

幼い頃、欲しかったものは、あれなのだな、と。今の私が、海(母の愛情)と、それを見つめる幼い頃の自分を、眺めているのです。

 

広くて大きい、と言っても、「全肯定、無批判のイエスマン」という意味でなく、ただ、すっぽり抱きかかえてくれる存在。心の拠り所のような存在。だから、本当に間違ってる事をしそうになったら、怒ってくれる存在。そういうイメージです。

(朔太郎さんの『腕のある寝台』などの作品は、まさに私にそのような印象を与えました。だから、大好きです。)

 

特に、三好さんは、母という存在への届かない憧れ…得られなかった愛情を、大人になった今、振り返って、そっと唄うような雰囲気の作品がいくつかあり、その彼の感覚に心を寄せる読み方が、私の好きな、彼の作品の楽しみ方です。

 

私も海は、「母なる海」という言葉もあってか、生命が誕生した場所である海は、母/女性性を感じていました。そして、これらの作品を通して、より、女性的なイメージになりました。

 

海と女、母、女性性…文学はこういった、答えのない事を考えられる世界なので、大好きです。