文学 美術 音楽 旅行についての鶴岡万弓の日記

近代、現代初頭の文学と、彫刻、絵画、浮世絵、建築などの美術が大好き。音楽ならクラシック!旅も好き!(現在、オーボエ専攻の学生です) それらの大好きな芸術に関して思ったことや、旅の事を記録として残しておこうと思いました。 そうして、同じ趣味を持つ方と繋がれたら嬉しいな、と思いブログを始めました!旅の記録は、どなたかの役に立ったり、「行ってみたい」と思わせるほどにその土地の魅力を伝えられれば、幸いです🌷

ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して②「気分」の芸術

前回で大分、前置きとして必要な説明はできました。今回から本題。

 

【主観の芸術を更に分けて、「気分」の芸術と、「感情」の芸術(狭義)】

朔太郎さんの言う「主観/感情の芸術」という括りでは、私には広すぎました。それに気づいたきっかけが、モーツァルトのコンチェルトです。

モーツァルトは前述の通り、「主観的」な作風の人。「感情」派です。バッハの反対側。しかし、「感情」というには、何かが違う…。心の動き、情動、情操を表現しているようには思えないのです。彼の作品は、もっと単純に、「楽しい」「悲しい」喜怒哀楽。本当に子供の純粋な心のようなイメージ。大人が子供に対して、「何故そう思ったの?」と聞いても、「わからない。そう思ったから。」と答える子供が持つような「感情」。

理由が裏付けできない、極めて「辞書的な意味で主観的な」感情。

同じ「感情」という言葉で表せる喜怒哀楽であっても、本質が異なっているのではないか?と考え始めました。

 

【私の意味する「感情」とは】

そこで、「感情」をもう少し細かく分けられるのでないか、と思ったのです。私の思う「感情」とは、有名な文人で言うと、萩原朔太郎さんや中原中也さん、三好達治さん等の詩で表現されるような「心、気持ち、思うこと」です。

(*ここからは、私の思う「感情」と区別するために、この「心、気持ち、思うこと」という「辞書な意味での感情」を私は、「気持ち」と表現します)

 

彼らの「気持ち」は、物事/事象に対して自身の心を寄せた結果、動いた気持ち、のように感じます。その事象と自身の心を溶かしあう如くに、自身の心を寄せて、能動的に事象を理解しようとします。

この時、「事象の真実を見るために、自分の心を寄せる」事が大事なので、その事象をしっかりと見ないといけないので、必然的に客観性も入ってきます。例えば、自分の心を疑う事や、自問自答。「私の認識は合っているか、しっかり事象に対してピンボケせずに寄せられているか、この事象に触れる中で得たこの気持ちは何なのか」といったような事です。

自分の気持ちや考えを「どう思ったのか、何故そう思ったのか」と見つめて表現する、という意味で、象徴主義的感覚です。

 

【*「真実」と「事実」の違い】

ここで言う「真実」とは、事実とは異なります。事実は「出来事」なので一つです。(しかも事実は、出来事なので、そもそも感情を必要としません)

「真実」とは、自分の心と事象が溶け合った状態、という感じです。自分の心が、「自分なりに」事象までたどり着いた感覚です。なので、真実は人それぞれです。

なぜなら、「真実を見るために心を寄せる」といっても、「自分が自分の心」を寄せるのですから、辞書的な意味で主観的な行動には変わらず、「あなたの事が完璧に分かった」という事はあり得ないからです。人は誰も同じ人はおらず、それ故に、どんなに「分かる」と思っても、完全に一致する事はあり得ないのと同じです。

そういった、客観性(疑う事、しっかりと対象を見ること、対象が主体でそれに近づく自分を見ること)が、「感情」という気持ちの要素で重要なものだと私は思います。私は、「感情」をそう言った意味で使います。

 

【「気分」とは】

一方、モーツァルトは、物事が自分にどう見えたか/感じたか、という「気持ち」。自分の心を寄せるのでなく、事象に対して、受動的。自分が主体で、自分を疑う事の一切ない自信に基づいた「感想」です。北原白秋もこちらに思います。この「自分が」という部分が強い「気持ち」を私は「気分」とします。自分の気持ちを、自分の思ったままに表現したり想像する、という意味で、ロマン主義的/ファンタジー的です。

 

(*この話の時、「想像力」はまた別の話なので、一緒にしてはいけません。むしろ、想像は、作品を生み出す芸術家には必須の力ですので、想像力ありきで話しています。)

 

【結論】

なので以上の通り、同じ「気持ち」を表現した芸術でも、「感情」か「気分」の芸術に分けられるのではないか、と思います。前者「感情」は、能動的で客観性を含んだ気持ち。後者「気分」は受動的で主観のみの感想的気持ち。言い方として、「感想的」「気分」というと、蔑んでいるように聞こえるかもしれませんが、この2つに優劣はないと私は思います。その証拠に、モーツァルト北原白秋も偉大な芸術家なのですから。

 

私は彼らのそういった、極めて主観的な感覚故の人間性が苦手ではありますが、作品は大好きです。最早最近は、作品の素晴らしさ故に、「人間性はどうであれ、参りました。」「その感覚や人間性ありきで、この作品ができたのですから、もう白黒つけられるものではない。その人間性すら作品の(を生んだ)一部として、肯定はできかねるが、『もうあなたはそうでしか生きられないのだから、いいじゃない』と受け入れる事はできます。」

「その人間性は苦手ではあるけれども、あなたの人間臭さという点には、じれったい愛着を覚えます。」、と兜を脱ぐ心境に至っています。(褒めてます)

 

つまり、朔太郎さんの言う、「感情の芸術」と、私の言う、「感情」の芸術は範囲が違います。彼のを広義とするなら、私のは狭義です。

 

 

気づいたきっかけについてと、最後の「信念の芸術」については、③で!