文学 美術 音楽 旅行についての鶴岡万弓の日記

近代、現代初頭の文学と、彫刻、絵画、浮世絵、建築などの美術が大好き。音楽ならクラシック!旅も好き!(現在、オーボエ専攻の学生です) それらの大好きな芸術に関して思ったことや、旅の事を記録として残しておこうと思いました。 そうして、同じ趣味を持つ方と繋がれたら嬉しいな、と思いブログを始めました!旅の記録は、どなたかの役に立ったり、「行ってみたい」と思わせるほどにその土地の魅力を伝えられれば、幸いです🌷

ボードレールとモーパッサン、サン=サーンスにサルトルらが眠る「モンパルナス墓地」へ

彫刻の話の途中ですが、どうしても書きたく、書きます…!2023年4/8、今回のレッスン期間の最終日に、モンパルナス墓地を訪れました。

 

この日、私のレッスンはなく、「帰りの電車の時間まで、まだ行っていない所に行こう!」と、思いつき、前日の夜に、色々調べて決めました。

(レッスン日程は予め、先生が教えてくださっていますが、具体的な時間割は、学校のレッスン室が分かり次第決めるので、直前に決まります。なので、この日が空くのは予想外でした。)

 

パリには著名人のお墓が多く、今回訪れたモンパルナス墓地も、著名人の眠る墓地の一つです。

 

【何故モンパルナス墓地か】

それは、私の大好きな、象徴主義の生みの親にして、フランス近代詩の帝王のような存在である、ボードレールのお墓があるからです…!!!

 

「調べた中でまず、著名人のお墓に訪れるなら…ボードレール!!」

私が愛し、敬愛してやまない方々のお墓があまりに多い上に、点在しているので、迷いに迷い、やっと決めました。

 

それと、高校の時から大好きなモーパッサンと、サルトルが眠っている事も大きな理由でした。

サン=サーンスの素晴らしさに気づいたのは、大学です。彼の作品も、大好きです😭🌷

 

スタンダールも大好きで、彼の「赤と黒」は、本当に、私の青春のような作品で、私にとっては、生涯忘れる事ができない程の、重大な作品です。

 

そんな彼のお墓は、モンマルトル墓地にあり、今回どちらに行くか非常に迷いましたが、ボードレールが「象徴主義の生みの親」というあまりに大きな存在故に、勝ちました…!

 

モンマルトル墓地は、スタンダール以外にも私の大好きな方のお墓が沢山あるので、とっても迷ったのです…😣次回は、モンマルトル墓地に行きたいです…!

 

【いざモンパルナス墓地へ】

↓このような案内版があり、手を合わせたいと思った4名のお墓の場所をチェック。道順的に、サルトルボードレールサン=サーンスモーパッサンが良さそうでした。

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(因みに、お手洗いもあり、無料で使えるので、ありがたかったです。)

 

【ということでまず、サルトルのお墓参りを】

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…!!!墓石にキスマーク…!?!?ペイント!?

すごいです…!さすがフランス、とでも言いましょうか、愛情表現が直球😳

 

もう会えない人のお墓に接吻をしたくなる気持ちは分かりますが、「衛生面的にどうなのだろう…!?」と、心配になり、私はお祈りだけで済ませました…!

 

「あなたの『嘔吐』は高校の時に読みました!」「『見る事は悪である』『アンガジュ』『人間は自由の刑に処せられている』これらの考え方は、私に大きな影響を与えてくれました!ありがとうございます!

そういった考えと、そんな発想ができるあなたが、大好きです!どうか、安らかに眠ってください。」

 

そのような事をお祈りしてきました。

 

【続いて、今回の主役、ボードレール…!💐】

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彼も多くの人に愛されているのが、このお墓を見れば、分かりますよね。

 

サルトルの時は、初めて見た「墓石にキスマーク(ダイレクト)」に驚きましたが、もうボードレールのお墓参りの時には既に慣れていました。(馴染むの早い笑)

 

そしてしゃがんで、花の沢山供えられている墓石の方に、そっと触れながら、お祈りしました。

 

「あなたは、あまりにも大きな存在です。今日、あなたにどうしてもお会いしたくて、ここまでやって来ました…!」

三好達治さんという、私の大好きな日本の詩人の方がいるのですが、彼は、あなたの作品を訳しているのですよ…!

日本という、遠い小さな島国でも、あなたの作品は愛されていて、更に当時の詩壇に、絶大な影響を与えました…!」

「あなたがいなければ、私の大好きな、ヴェルレーヌランボーも、詩人として存在しなかったでしょう…!だから、あなたは私にとって、本当に大事な人なんです…!大好きです!

私を、あなたの世界観と幻想(=つまり作品)に、一緒に連れて行ってください…!」

 

 

最後、モーパッサンのお墓まで行った後、もう一度戻って手を合わせてた程、ボードレールは今の私にとって、大事な方なのです。

 

2度目の時には、衛生面でやはり気になったので、直接、接吻はしなかったものの、私の口づけした指で、彼の墓石に刻まれた名前を、軽く撫でるように、何度もなぞりました。

 

そうして両膝を着いて、再度お祈りしました。最早そうせずにはいられませんでした。

 

なんといいますか、彼はもう超越した存在です。象徴主義という、多くの詩人を始め、芸術家に影響を与えただけでなく、私の大好きなジャンルの創り主。

 

敬愛、だけでは無論足りない、私の語彙の貧弱さを苦しく思う程の、ありったけの感謝と尊敬と愛情、傾慕。

それらが、ごちゃ混ぜになって、私の脳髄と胸を占めるのです。感動で、混乱しました。

そしてもちろん泣きました😅(本当によく泣きますよね…微苦笑)

 

苦しいのだか、嬉しいのだか。苦しいから嬉しいのか、嬉しいから苦しいのか。もう、よく分からなくなってしまいました。本当に、幸せな時間でした。

 

 

【続いて音楽家サン=サーンス💐】

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彼のお墓は道沿いでなく、奥にあるので、探すのが大変でした…!でも、とっても綺麗…!😳

彼のお墓では片膝を着いて、お祈りしました。彼の作ったオーボエソナタが、頭の中でずっと鳴り響いていました。

 

「あなたの音楽が大好きです!!オーボエのために、あんなにも素敵なソナタを書いてくださり、本当にありがとうございます…!!」

「『序奏とロンド カプリチオーソ』も大好きです!大学の時に演奏しました!!

『動物の謝肉祭』!!特に、水族館が好きです!!でも、他の曲もウィットに富んでいて、全部好きです!!交響曲も、もちろん好きです!!」

 

「あなたの曲はこんなにも素敵なのに、日本ではあまり有名でないことが、私には理解できません。

私がもっと上手くなって、あなたの曲の美しさを広めたいです…!!そのために、練習頑張ります…!!」

 

お祈りした後、彼の名前を、指で静かになぞりました。

練習の意気込みを改めて、手に入れました。

 

*お祈りは、「日本語だと通じないのでは?」と思い、つたない英語で、頑張りました!最初のサルトルからです!

 

 

モーパッサンのお墓に行く前に、ボードレールの慰霊碑へ】

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悪の華』の世界観たっぷり…!!この慰霊碑は、彼の知人が、建てたそうです。

というのも、お墓自体は前述のものですが、そのお墓で彼は、彼だけでなく、彼の義父と共に眠っているので、それを知人が不憫に思ったからだそうです。

「彼だけのためのモニュメントが欲しい」と思わせるボードレール、流石です…🙇

 

 

【最後にモーパッサン💐】

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彼のお墓は、道路を隔てたもう一方の敷地内なので、最後に訪れました。

彼のお墓を探している時、他の二人組の訪問者の方から、「もしかして、モーパッサンのお墓探してる?」と声をかけられ、一緒に手分けして探しました!

 

見つけたのは私でした!「見つけました!ここです!」と二人を呼んで、雑談も少々。

 

「どこから来たの?」ときかれ、「日本🙂」と答えると、「ああ! こんにちは!」と😳 「あなたは?(どこから来たの?)」「インドだよ🙂」私はすかさず、「あ! ナマステ🙏☺️」

 

この、ナマステの時に、みんなで手を合わせて軽く会釈するタイミングが一致したのが面白かったです😄

その方は、パリで活動する劇の演出家だそうで、今度モーパッサン「母」を演出するため、訪れたそうです。素敵な一期一会の、旅らしい思い出になりました!

 

その方が、「写真撮ってあげるよ!」と勧めてくださり、畏れ多くも、モーパッサン(のお墓)とツーショット(?)を撮ってもらいました…!(ブログにその写真は載せてないです)

 

大好きな「モーパッサン(のお墓)と一緒に写真を撮る」という出来事が私の人生で起るなんて、考えた事がなかったので、ある意味、生涯の思い出になりました…!

(もともと自分の写真は好きではないのですが、折角の勧めを断るのも悪く、撮ってもらいました)

 

 

握手をして二人と別れた後、私は残って、ゆっくりお祈りしました。

 

「あなたの作品には、高校の時に出会いました。それからずっと、読んでいます。本当に面白くて、美しくて、コケットリーもあれば、皮肉も効いてて、大好きです…!」

 

モームが、『世界十大小説』で言っていた、小説に必要なものの全てのポイントが、あなたの作品にはあると、私は思うのです。

だから、私はあなたの作品を退屈に思ったことはなく、むしろ小説の単純な面白さは、あなたから教えてもらった、と思っています!」

 

「難しくなく、シンプルなのに、面白い。これは、すごい事だと思います。あと、いつもオチがいいです。だから、どんどん読みたくなるのでしょう…!」

 

柱のような部分に頬を寄せて、長い事、お祈りしました。「ずっとこうしていたいです…。」

本当に天気も良く、温かく、風も時より軽く吹き、素敵な日和でした。

 

ふと、彼の作品の「墓」「墓女」などを思い出しました。彼は結構、死に関するテーマが多い気がします。

 

そうして彼の作品を思い出しながら目を閉じていたら、もっと美しくありたい、と思いました。せめて、私が、「あなたの作品が大好きです!」と、お祈りしに来ても、相手に不快感を与えない程度には…と。

 

今、こんな風に、頬を寄せてるけど、彼は不愉快じゃないかしら…(太宰治口調で)

気づいたのです…😨

 

見た目だけの問題でなく、中身です。勿論、美しい顔立ちの人であれば、それだけで相手は嬉しいでしょう。(ルッキズム的意味でなく、「文学あるある」的意味です)

 

でも、顔の美しくない私は、どうしようもないので、せめて、せめて、もっと内面を美しくしよう、と思いました。

大好きな文人の皆さんの恥にならないよう、美しく生きたい。生きる。いつ何時であれ。とモーパッサンに誓いました。

 

前述の通り、この後再びボードレールのお墓を訪れ、彼の墓前でも、誓いました💐

 

 

【おわりに】

モンパルナス墓地の、2時間半に渡る滞在は、私にとって、本当に幸せな時間となりました…🌷

単に嬉しいだけでなく、どんな人になりたいか気づくきっかけにもなり、価値のある時間でした。

 

ただ、本当は、お花をお供えしたく、墓地入り口で買えるかと予想して行ったところ、なかったので、お供えできなかった事だけが、心残りです…。

「お花もなくて、ごめんなさい…。」と皆さんへのお祈りの時に、実はちゃんと謝ってました…。

 

もし、お花をお供えしたい場合は、墓地にはないので、途中のお花屋さんで買って、お供えしてください💐

 

お墓参り目的でなく、ベンチでくつろぐ地元の方も沢山いて、素敵な空間、モンパルナス墓地。おすすめです💐

オルセー美術館①/彫刻は『陰翳礼讃』な『魔法人形』②-1

前回は、彫刻鑑賞の楽しみ方について説明しました。今回は、いよいよ作品の写真を見ながら。まずは、オルセー美術館の彫刻から😊

 

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タイトルは、『イヴの目覚め』。

神様から、「食べてはいけない」と言われていた果実をヘビにそそのかされて、食べ、「目覚める」聖書のお話テーマです。目覚めたイヴは、「裸であることを恥ずかしく思い」葉っぱで体を覆います。

 

この作品をこの角度から観ると、モチーフの蛇とリンゴ(果実)が見えるうえに、イヴが、「恥ずかしく思い」体を隠すために、身を縮こめているように見えます。

 

イヴは、①人から自分の裸を見られたくなかった。だから、②鑑賞者は、彼女の隠したがる体を見てはいけない。

そうすると、この位置かな…?と探していきました。しかもこの位置からだと、作者のサイン(左下)も見えます。(写真だと見えづらいですが、イヴの足の裏と、蛇の尻尾の間の岩にサインがあります)

作者が、この位置から観るのをメインに考えて作った事を、確信しました笑

 

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この作品はすごい!!

題名を忘れました…糸を紡ぐ人です。

どこから見ても躍動感があり、どの視点からでも楽しめるからです!!!

 

楽しそうに糸を紡ぐ人の、鼻歌が聴こえてきそうな程でした!!!

 

紡がれる糸自体は無いですが、両手の間に、細く、光に反射して輝く蜘蛛の糸のような糸が、彼女の紡ぐ動きに合わせて、緩んだり、張り詰めたりしながら紡がれる様子さえ、私には見えました!!

 

本当に、彫刻の魅力の詰まった素敵な作品です🥹👏大好きな作品出会えました!!!🌷

 

 

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彫刻だと、タイトルをいつもメモし忘れていまします…。それだけ、「見ただけで、何がモチーフか」、私にとっては絵画より、分かりやすいのです。

この作品は、仮面を持つ人。

 

着ける瞬間か、取った瞬間か。見る人によって変わるでしょう。私には、剥がしているように見えました。心理学者ユングの、「ペルソナ」という説を思い出させる作品です。

彼女は着けていたお面を、サッと取った瞬間。もしくは、ピッタリと張り付いたお面を、ベリベリと引き剥がすように取った瞬間。

 

一枚目の写真の位置からだと、彼女の眉間にシワが寄っているのが分かります。なので、仮面を剥がす痛みに、顔を歪めたように見えました。その痛みで首ものけぞる…。

 

もしくは、サッと取って、「今まで苦しかった!」という、苦しみからの解放感ゆえに、グッと眉を寄せる。

 

何故、解放感を感じたかというと、表情や、頭部の動きが大きい事に対して、首から下の体はリラックスしているからです。どこも力んでいません。

 

なので、痛みに頭をのけぞらせつつも、その苦痛は、解放感に繋がってるように私には見えました。

 

なので、一気に「ペルソナ」を剥がして、すっきりしたように見えました💐「お面の無表情さ」と、彼女の「微妙に動きのある人間の表情」の対比が、美しい作品です。

 

2枚目の位置からだと、彼女の表情は見えません。ですが、表情が見えない故に、「お面の無機質さ」と、「人間の体の軟らかな動き」の対比が今度は感じられ、美しいと思いました。

 

 

続きはオルセー美術館②で!

彫刻は『陰翳礼讃』な『魔法人形』/12月のパリ旅行①

私が初めて感動したのは、絵画。という話は以前しました。今回は現在、最も惹きつけられている彫刻について。

12月の旅については、時系列にして別に記録を書きたいと思いますが、導入として必要なので、少し触れておきます。

 

 

2022年12/14-21、私はパリへ、美術館巡りの目的で旅に行きました。というのも、EUのVISAを持っている25歳までの人は、大概のミュージアムが入場無料になる、と先輩から教えていただいたためです。

「それは!何がなんでも、いかなくては!」と居ても立っても居られず、行きました😂それくらい、私は美術が好きです。

 

このシステムのすごい所は、「フランスのVISA」でなく、「EUのVISA」を持っている人、という所です。なので、ドイツのVISAを持つ私でも対象者になるのです…!!!

ありがたく、その権利を使わせてもらい、作品との本当に素敵な出会いが沢山あった旅となりました。

(音楽の勉強のために留学しているのにも関わらず、演奏会にはまだ一度も行けていません…どれ程、私が美術、特に彫刻が好きかを、分かっていただけるかと思います。この「好き」の具合は、後ほど、江戸川乱歩の『人間椅子』『人でなしの恋』などに繋がります)

 

私の「旅」は、「現地の人が暮らすようにその地で過ごす事」です。なので、宿はAribnbで安く取り、食事もスーパーのサラダとサンドイッチや、町のパン屋さんで。屋台などでも食べます。(でも、安全性を考慮して、やめる事も頭に入れてます。いつか行きたいインドや、南米とか😅)

 

【行った美術館】

12/15、20日オルセー、12/17、18、21日ルーブル20日プティ・パレ、19、21日オランジュリー

 

*プティ・パレは、VISAや年齢など関係なく、なんと全ての人が入場無料です…!その他のミュージアムは、私は入場無料対象者として、無料で見学しました。本当に、ありがたく、凄いシステムだと思います…🙇

 

 

【本題 彫刻の魅力】

彫刻の何が楽しいか:「どこから観るか」を探す事から始まるところと、陰翳の表情。

 

具体的には、

①作り手は「どこから見てほしい」と考えて作ったか、探る(その作品が最も美しく、かつテーマが分かる位置を探す)

②見る角度(上下)、方向(前後左右)、距離によって変わる陰翳と表情を楽しむ

 

①も②も、絵画ではあり得ません。絵画は、見る角度や方向、距離は大抵決まっているからです。(裏からとか、観れないという意味です)

ですが、彫刻は、「どこから観るか」という所から始まるのです。これが、楽しい!!!🥹

 

私にとって、「詩」を読解している時の感覚や、脳の使い方に似ています。

絵画鑑賞時は、小説や戯曲を読む時の感覚等に似ています。

 

小説や戯曲は、枠/構成がある程度決まっているのに対して、詩は、韻というルールはあれど、前者等に比べると、自由に感じます。

それと、詩は、短くまとめるために、言いたいことの核だけをくり抜いて言わなければなりません。

小説は限りなく長く書けるので、沢山修飾したり描写する、説明する、といった事が可能です。

 

【まとめ】1)がそれぞれの構成や、鑑賞する位置について 2)が見た目の情報量 として、

 

これは、絵画が、

1)観る位置が決まっている事と、

2)沢山キャンバスに書き込めるという点が、

1)構成という枠があり、

2)沢山書ける小説と似ている一方、

 

彫刻は

1)多角的に楽しめて、その広い可能性の中から、作者の意図を読み取る事と、

 

大きな石故に、大概の作品は、テーマ単体であること。つまり、絵画に比べると、見た目上(視覚的に)は、

2)一つの作品で現す事ができる情報が少ない点が、

 

詩の「作者の自由な感性」故に、読み始めの入り口が広く、

1)その広い可能性の中から、読み進めるうちに(もしくは読み終わって)作者の意図に近づく、詩、独特の読解方法と、

2)短くまとめるために、言いたい事「しか」書かない/書いてはいけない点が、彫刻と似ています。

 

 

説明で長くなってしまいました😅次回②から、私の撮った作品の写真と合わせて、感想を書きます😊🌷

ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して③ファンタジーが含まれる「信念」の芸術

【気づいたきっかけ】

モーツァルトのコンチェルト(第一楽章)を改めてさらっている時、やはり上手くイメージが掴めず、イメージ整理のために紙に書き出していました。以下、2023年2月18日のメモです。発想の経緯がうかがえます。

 

子供みたいに無邪気。開けた自由さ。でも柔らかく、優雅。滑らかだけどハリがある。小さくなく、大きく華やか。自信がある人。感情というより、「自分が好きな人」が、朗々と歌うような「自信」故のフォルテ。だから豊かで包む様なフォルテ。強いのではない。自信があるから、フォルテ。息をたっぷり使う。

自信があるから、「自分はこう思いました。」という事に対して、疑いを持たない。

 

堂々として声が大きいが、太い豊かな声だから、不快でない。その声色故に、ゆっくり話してるように聞こえるかんじ。が、録音して聞くと饒舌なのが分かるような。沢山話してるのに、うるさくは感じない。

言う事がポジティブで面白いけど、エゴ(辞書的な意味での主観)が見えるような人。自分を疑わないので。

だから、ここで語られる「気持ち」は、主観の感覚からのみ生まれた、「思ったこと」であって、「感情」ではない。気分の話。悪い人ではないけれど、私の苦手な人。「気分」!

「感情」とは、真実に触れた時/思う時に生まれる心の波(喜怒哀楽など)であって、ただ単に、「思うこと」「感想」とは違う。そうだ「感情」と「感想」は違う!

 

今まで出会った作品(登場人物)で、こういう人に出会ってない…?だから上手くイメージが掴めない?

私が苦手な人だから、上手く吹けない…?①そういう人に私がなりきって吹くか、②感情の感覚に持ってきて吹くか。でも②後者だと、本質するものが合わないので、上手くいかないor作者の意図と違う事をする不快が生じる。

なりきって吹くしかない…?

 

(*メモ補足:エゴイスティックなのは、悪い面だけでなく良い面もあると思います。子供が正しくそうだと私は思います。

「感想」を生む「気持ち」が、「気分」。なので、『「感情」と「感想」は違う!』という部分は、正確に言うならば、『「感情」と「気分」は違う』。しかし、作品という完成品は、気分の結果である感想の産物なので、作品から考察を進めていたメモの段階では、「感想」と言っている。

「感想」から遡って、「気分」を発見したので、メモの段階ではそこまで遡れていないという事。)

 

【信念の芸術】

これは、考察を進めるうちに思いついたものです。発想の経緯は、

①まず、理論の芸術と感情の芸術(朔太郎さんやニーチェのアイデア)がある

モーツァルトを理解しようとした時、その二分割では足りないと思った

③感想の芸術にも、大きく2つある。主観のみの「完全な感情の芸術」(=「気分」の芸術)か、客観も不可欠な、「客観という理論の芸術の要素を含んだ、感情の芸術」(=「感想」の芸術(狭義)

④ならば理論の芸術内にも、「完全に理論の芸術」、と、「感情の芸術の要素を含んだ理論の芸術」があるのでは

 

です。そう思うと、思い当たる節がありました。代表は、ワーグナーです。

 

【信念の芸術の代表者 ワーグナー

彼の作品は、「ライトモティーフ」と呼ばれるものが頻出します。ライトモティーフとは、登場人物やキーアイテムなどに、それぞれ音型/旋律を決めて、それぞれのモチーフとして表すことです。

なので、オペラで最もよく使われます。

 

そして、彼の表現したいものは、彼の想像する世界です。彼自身の感情ではありません。そうすると、「理論の芸術」という事になりますが、「自分の世界」という極めて主観的な世界を、冷静な「理論の芸術」と一括りにして良いものか。やはり、理論の芸術と一口に言っても、こちらも大きく二分される、と結論づけました。

冷静で、客観的に「美」を追求する、「理論の芸術」と、「自分の世界」という主観的理論が表現する「信念の芸術」。

 

【感情論と主観的理論の違い】

「自分の世界」という主観の世界。客観はいりません。ですが、「自分なりの理論で成り立った世界」であって、メインは感情ではありません。「個人の考え、価値観、ルール」から生まれた個人的理論と世界観ですから、客観的理論でなくとも、主観的「理論」で作られた世界なので、理論の芸術の方に入ります。

感情論と、自分の世界/ルール/価値観は、違うものです。感情で物事を考えたり、進めたりしたがるのが感情論で、自分の世界で考えるのは、個人の価値観などの判断基準があります。物事の判断基準が、感情か、個人的ルールか、という違いがあります。

 

つまり、自分の信念に基づいて作られたり、表現される芸術なので、「信念の芸術」です。

 

アインシュタインの言う「偏見」と合わせて】

彼は、「18歳までに身につけた常識を、偏見と言う」と表現しました。まさしくその通りだと思います。そして、これは、「信念の芸術」にも言える事だと思います。

何故なら、自分の世界、という「自分の常識から作られた世界」は、客観のない「偏見」なのです。なので、このタイプの芸術は危ない場合もあるのです。(正しくワーグナーもそうです)

 

ですから、本当は「確信の芸術」と言った方がいいのかもしれませんが(確信犯という言葉のイメージから)、全ての芸術家がそういう訳でもないので、「信念」としました。

むしろ、ワーグナーが例外的に強いだけのような気がします。何故なら、多くのロマン主義の芸術家や、ファンタジーも信念の芸術に入ると思うからです。

 

 

【ファンタジーは「信念」の作品】

感情でなく、世界観を表現する事が主軸なので、ファンタジー作品も、ここに分類されるのではないかと思います。代表は、ハリーポッターでしょう。あんなにも世界中で人気のある、「一人の人間の想像の世界の話」はないでしょう。多くのマンガもそうでしょう。代表は、ワンピースでしょうか。

あれらは、個人が想像した世界の話です。そして、その世界の話をするのがメインで、「その世界を想像する自分の感情」を表現している作品ではありません。なので、感情の芸術ではなく、理論の芸術に分類され、理論の芸術の内、信念の芸術に分類されるのです。

 

(マンガやファンタジー小説が、芸術に分類されるのか、という事に関して、現時点での私の中では結論は出ていません。

今は「表現におけるその方向性と、発想源」についての考察であって、そもそも芸術とは何か、ではありません。

芸術とは何か、というテーマは難しく、まだ考察の途中です。)

 

 

ミケランジェロは結局どっちか】

彼が、「自分の思う美」を表現したかったのなら、「信念の芸術」です。ですが、「これが私の好きなものです」という「好き」を作品に込めたのならば、「感情の芸術」です。

彼の作品は、同年代の他の芸術家達が残した作品より、情熱を感じます。(彼の作品は動きが大ぶりであったり、大胆であったり、斬新なポーズなものが多い)

ですから、私は、感情の芸術かもしれない、と考えたのです。が、その情熱が、「自分の世界の美」の表現へのものか、単純に人から何と言われようと、「好き」「美しいと思う」という感情表現なのかは、彼に聞かない限り、分かりません。

ですがそのように、色々な角度から作品を見ると、見え方が変わってくるので、私はそれを楽しんでいます。

 

 

以上で、私が考えた芸術区分の説明は終わりです!これは現在の考えであって、また変わるかもしれせんが、今の自分の考えをまとめるために、書き残しました。

私の考えはさて置き、ニーチェや朔太郎さんの芸術論を知っていただく機会になれば、嬉しいです😊

(周りの人でも、知ってる人に出会ったことがないので、意外とマイナーな事なのか、と私が驚いたのが、書こうと思ったきっかけでもあります)

ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して②「気分」の芸術

前回で大分、前置きとして必要な説明はできました。今回から本題。

 

【主観の芸術を更に分けて、「気分」の芸術と、「感情」の芸術(狭義)】

朔太郎さんの言う「主観/感情の芸術」という括りでは、私には広すぎました。それに気づいたきっかけが、モーツァルトのコンチェルトです。

モーツァルトは前述の通り、「主観的」な作風の人。「感情」派です。バッハの反対側。しかし、「感情」というには、何かが違う…。心の動き、情動、情操を表現しているようには思えないのです。彼の作品は、もっと単純に、「楽しい」「悲しい」喜怒哀楽。本当に子供の純粋な心のようなイメージ。大人が子供に対して、「何故そう思ったの?」と聞いても、「わからない。そう思ったから。」と答える子供が持つような「感情」。

理由が裏付けできない、極めて「辞書的な意味で主観的な」感情。

同じ「感情」という言葉で表せる喜怒哀楽であっても、本質が異なっているのではないか?と考え始めました。

 

【私の意味する「感情」とは】

そこで、「感情」をもう少し細かく分けられるのでないか、と思ったのです。私の思う「感情」とは、有名な文人で言うと、萩原朔太郎さんや中原中也さん、三好達治さん等の詩で表現されるような「心、気持ち、思うこと」です。

(*ここからは、私の思う「感情」と区別するために、この「心、気持ち、思うこと」という「辞書な意味での感情」を私は、「気持ち」と表現します)

 

彼らの「気持ち」は、物事/事象に対して自身の心を寄せた結果、動いた気持ち、のように感じます。その事象と自身の心を溶かしあう如くに、自身の心を寄せて、能動的に事象を理解しようとします。

この時、「事象の真実を見るために、自分の心を寄せる」事が大事なので、その事象をしっかりと見ないといけないので、必然的に客観性も入ってきます。例えば、自分の心を疑う事や、自問自答。「私の認識は合っているか、しっかり事象に対してピンボケせずに寄せられているか、この事象に触れる中で得たこの気持ちは何なのか」といったような事です。

自分の気持ちや考えを「どう思ったのか、何故そう思ったのか」と見つめて表現する、という意味で、象徴主義的感覚です。

 

【*「真実」と「事実」の違い】

ここで言う「真実」とは、事実とは異なります。事実は「出来事」なので一つです。(しかも事実は、出来事なので、そもそも感情を必要としません)

「真実」とは、自分の心と事象が溶け合った状態、という感じです。自分の心が、「自分なりに」事象までたどり着いた感覚です。なので、真実は人それぞれです。

なぜなら、「真実を見るために心を寄せる」といっても、「自分が自分の心」を寄せるのですから、辞書的な意味で主観的な行動には変わらず、「あなたの事が完璧に分かった」という事はあり得ないからです。人は誰も同じ人はおらず、それ故に、どんなに「分かる」と思っても、完全に一致する事はあり得ないのと同じです。

そういった、客観性(疑う事、しっかりと対象を見ること、対象が主体でそれに近づく自分を見ること)が、「感情」という気持ちの要素で重要なものだと私は思います。私は、「感情」をそう言った意味で使います。

 

【「気分」とは】

一方、モーツァルトは、物事が自分にどう見えたか/感じたか、という「気持ち」。自分の心を寄せるのでなく、事象に対して、受動的。自分が主体で、自分を疑う事の一切ない自信に基づいた「感想」です。北原白秋もこちらに思います。この「自分が」という部分が強い「気持ち」を私は「気分」とします。自分の気持ちを、自分の思ったままに表現したり想像する、という意味で、ロマン主義的/ファンタジー的です。

 

(*この話の時、「想像力」はまた別の話なので、一緒にしてはいけません。むしろ、想像は、作品を生み出す芸術家には必須の力ですので、想像力ありきで話しています。)

 

【結論】

なので以上の通り、同じ「気持ち」を表現した芸術でも、「感情」か「気分」の芸術に分けられるのではないか、と思います。前者「感情」は、能動的で客観性を含んだ気持ち。後者「気分」は受動的で主観のみの感想的気持ち。言い方として、「感想的」「気分」というと、蔑んでいるように聞こえるかもしれませんが、この2つに優劣はないと私は思います。その証拠に、モーツァルト北原白秋も偉大な芸術家なのですから。

 

私は彼らのそういった、極めて主観的な感覚故の人間性が苦手ではありますが、作品は大好きです。最早最近は、作品の素晴らしさ故に、「人間性はどうであれ、参りました。」「その感覚や人間性ありきで、この作品ができたのですから、もう白黒つけられるものではない。その人間性すら作品の(を生んだ)一部として、肯定はできかねるが、『もうあなたはそうでしか生きられないのだから、いいじゃない』と受け入れる事はできます。」

「その人間性は苦手ではあるけれども、あなたの人間臭さという点には、じれったい愛着を覚えます。」、と兜を脱ぐ心境に至っています。(褒めてます)

 

つまり、朔太郎さんの言う、「感情の芸術」と、私の言う、「感情」の芸術は範囲が違います。彼のを広義とするなら、私のは狭義です。

 

 

気づいたきっかけについてと、最後の「信念の芸術」については、③で!

ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して、「気分」の芸術、「感情」の芸術、「理論」の芸術、「信念」の芸術

モーツァルトオーボエ協奏曲KV314を練習していて、タイトルの芸術の方向性を考えつきました。

この曲は、オーボエ奏者にとって一生関わる曲です。何故なら、オーディションやコンクールで必ず吹かなければいけない曲だからです…。

 

そして私はモーツァルトが苦手…。彼の言いたい事などはよく分かるのですが、いまいち私が表現しきれない。技術的にも難しいのですが、音楽が掴みきれていない、というのをずっと感じています。

彼の曲は、いつも新しいテーマが出てきて、「型や形式」(因みにこの曲の第一楽章は、ソナタ形式)というものをあまり感じませんし、和音もころころ変わる。気分で遊ぶ子供みたいに、元気で、目新しいものにわくわくする感じ。その子供らしい無邪気さ、というのは分かるのですが、私が吹くと、「頭で分かってる」だけで、なにか違う…。そう悩んでいました。

 

この記事①では、ニーチェの芸術論と、朔太郎さんのいう「主観/感情」の芸術と、「客観/理論」の芸術につて説明します。

 

ニーチェの芸術論もしくは、プラトンアリストテレス

ニーチェの考えた、アポロン的芸術と、デュオニュソス的芸術。これは、私が中学1〜3のどこかで知ったことです。プラトンアリストテレスの哲学についても、中学時代に(けれどもニーチェより前に)本で読みました。大雑把に言うと、

アポロン的芸術=アリストテレス

デュオニュソス的芸術≒プラトン的 です。後者は≒です。

 

名前から分かるように、アポロン(ギリシャ神話の太陽の神)的な方は、理論を大事にします。理路整然とした、「正しい」美。理性的で論理的な正しいものを「美」とする感じです。

一方、デュオニュソス(お酒の神様)的な方は、破壊、酩酊、混沌、といった「正しさ」とは正反対の所に「美」を見出します。感情的なものもこちらです。

一言でいえば、前者は理論。後者は感情論。もしくは、萩原朔太郎さんの『詩の原理』の表現で言うと、「客観」と、「主観」。

 

プラトンアリストテレス萩原朔太郎『詩の原理』】

彼らの考え方については、前述の朔太郎さんの『詩の原理』にもでてきます。彼曰く、アリストテレスは客観的で、感情論を排除した、知性のみで物事を考えるのに対し、彼の師匠プラトンは、暖かい感情の靄によって包まれた知性によって、物事を考えるそうです。

因みに、大事な前提条件として、「感情=主観」と、朔太郎さんはしています。「感情のないもの=客観」です。

作者の辞書での定義、つまり、作者の使う言葉の意味やニュアンスをしっかり理解する(前提条件を一致させる)のは、読解と説明上で欠かせない事なので、説明しておきます。(『詩の原理』については、読後、記録に書きたいと思っています。読んだのはまだ半分くらい)

 

【この主観と客観の芸術だけでは、私には足りなかった】【その前に、音楽が「主観的芸術」である説明】

モーツァルトは前述の通り、自由な子供のような作風です。人柄も。彼は圧倒的に、「主観/感情」の人であり、「主観/感情の作品」を書きます。

ですが、音楽の面白いところは、理論で成り立っているところです。特に、和音と和音進行。形式は分からなくても、和音は、「明るい」「暗い」「いい響き」「不快な響き」など、誰でも分かるものですし、それ故に、そこには理論が生まれ、関係してきます。「こういう響きの後には、この和音。でないと気持ち悪い。」といったような、和音進行の理論です。

 

そういう意味においては、音楽では、理論が必ず関与するので、「理論の芸術」つまり、「客観の芸術」と言えるのでしょう。しかし、『詩の原理』において注意していただきたい事は、「感情の有無」が「主観、客観」を分ける要素という事です。音楽のリズムの舞踏的躍動感と、和音による感情的表現は、心を揺さぶりますよね。わくわくしたり、悲しくなったり。なので、音楽は鑑賞者の「感情」を動かすので、「主観的芸術」なのです。

音楽を構成するのに理論が必要なのであって、音楽によって、作曲者や演奏家が表現したい事が理論/理性論か、という事は別です。表現したい事が何か、または、鑑賞者が何を得るか、というので芸術の方向性を分類すべきだと私は思います。なので、音楽で鑑賞者が得るものは、「感情」。また、多くの作曲家が表現したものも、「感情」。したがって、「主観/感情的芸術」なのです。

 

【音楽の対局は美術、「客観/理論の芸術」】

因みに音楽の対局は、美術、と朔太郎さんはしています。美術は、理性的な美を追求する、知性に研ぎ澄まされた冷たい美。科学的研究の美。「客観の芸術」と言っています。そこに感情があっては、感覚を研ぎ澄まし冷静になる事ができないので、あってはいけない。との事です。

 

【例外】

音楽の中にも、美術的な理性の美が、美術の中にも、音楽的感情や興奮の美があります。これについても、朔太郎さんはしっかり説明しています。

有名な芸術家で私が例えると、美術的音楽は、バッハ。音楽的美術はミケランジェロ

バッハの音楽は、緻密で、その理論の美に驚きます。彼の音楽は、学問的、数学的音楽の美。彼の言いたいことは、感情でなく、「音楽の理論の美」、だと私は思います。なので、「美術的」ないしは、「客観/理性的」音楽。

 

一方ミケランジェロの作品は、彼の嗜好が全面に押し出されていて、彼は作品を通して自分が「どんなものが好きか」という事を言いたかったように思います。彼の作品は「美」を突き止めるのでなく、彼の「好く」という「感情」を作品に込めている、という事です。

彼の作品は、「私はこういうのが好きだ!」という彼の自己表現、と言えば分かりやすいでしょうか。

(しかし、後ほど説明する、「信念の芸術」の方かもしれないです。まだ私の中で結論が出てない芸術家です)

 

 

結局、別記事で書こうと思っていた『詩の原理』の解説と感想のような序盤になってしまいました😅ただし、説明として必要だったので…!続きは②で🌷

モネ『ルーアン大聖堂』は私にとっての、江戸川乱歩『恋と神様』③

江戸川乱歩『恋と神様』は、エッセイです。彼が八歳の時の思い出を、振り返って書き残した作品です。

 

【要点とあらすじ】(手元に作品がないため、記憶している範囲です。その上、記憶違いもあるかもしれません。すみません。)

 

同じ小学校で、天女のように美しい子に出会う。その子の美しさは、他の子と同じ様におままごとをしたりして、その子が友達と一緒に同じ遊びをするのが、不自然なくらいだった。

その子の小さくなった鉛筆だったか、何か、盗んで、(もしくは、その子の靴箱に紙だったか、何か入れて、下校前にその子に見つかる前に回収した。)それを、大事に、大事にした。神様のように拝んだりもした。

 

ある日、乱歩先生が親の都合で、引っ越すことになる。そこで、その家の柱に爪で「私ハアナタヲ愛シテイマス」だったか、とにかく、メッセージを書いた。

それは、彼が越した後、①その子がその家に様子を見にが来るか、もしくは、②その空いた家にその子の一家が越してくるか、①か②どちらかを想像した乱歩先生が、彼女へ宛てたメッセージ。

 

美しいものに心を寄せる、という事は、幼少期の乱歩先生にとって、神様を拝むような気持ち。それくらい、純粋で一心なもの。ただただ、大事に思うこと。それを、恋、と彼は呼んだ。

 

さて、ようやく繋がります。(色々長かった😅)

私の神様との対面。その心情。前回記事の①②でも書かなかった、鑑賞中思っていた事は、「ああこれが、『恋と神様』…!」「乱歩先生の言いたい事は、読んだ当時も分かりました。でも、今、私は私の体験を通して理解しました…!あなたが八歳の時に味わった気持ちを…!」「神様、と拝まずにはいられないほどの、自分にとっての絶対的存在…その不可思議な美…」

「その、神様に対してひたむきに祈るような心は、見返りを求めない片恋の純愛のようですよね…あなたの言う『恋』とはそういう感情ですよね…」

「私もそういう感情を分かるのですが、上手く言語化できなかった。でもあなたは説明できる。本当に、なんて素敵な人なんだろう…!!!そんな乱歩先生が大好きです…!!!」

様々な思い、感動、発想が、湧き水のように溢れて止まりませんでした。

 

神を見た犬の気持ちは未だに掴みきれてないですが、乱歩先生の『恋と神様』で語られた感覚は、心を寄せて触れることができました。

だから、モネ『ルーアン大聖堂 ファサード(日没)』は私にとっての、江戸川乱歩『恋と神様』です。

厳密に言えば、私が八歳の乱歩先生で、『ルーアン大聖堂 ファサード(日没)』が、天女の様な子、としての追体験をした話でした。

 

【追記】

バラ色の夕日が世界を桃色に染める時間帯、大禍時。その夕日をいっぱいに浴びて、バラ色に輝く『ルーアン大聖堂』は他にもいくつかあると、この記録を書くために調べて知りました。

私の記憶に近いのは、今回の『ファサード(日没)』以外に、

①『ルーアン大聖堂:赤、陽光』(セルビア国立博物館)

②『ルーアン大聖堂:扉口、昼下り』(個人所蔵)

です。

 

小学生の時に見た、あの『ルーアン大聖堂』は、マルモッタン所蔵の『ルーアン大聖堂 ファサード(日没)』であったのか…。分かりません。

でも、出会えたあの日の感動は、本物です。