文学 美術 音楽 旅行についての鶴岡万弓の日記

近代、現代初頭の文学と、彫刻、絵画、浮世絵、建築などの美術が大好き。音楽ならクラシック!旅も好き!(現在、オーボエ専攻の学生です) それらの大好きな芸術に関して思ったことや、旅の事を記録として残しておこうと思いました。 そうして、同じ趣味を持つ方と繋がれたら嬉しいな、と思いブログを始めました!旅の記録は、どなたかの役に立ったり、「行ってみたい」と思わせるほどにその土地の魅力を伝えられれば、幸いです🌷

海と女/女性性について(三好達治、大手拓次、坂口安吾の作品より)

何年も前、安吾さんの『私は海をだきしめていたい』を読んだ。感想は、「安吾さんらしいなあ😂そういう所が大好き😂私も海をだきしめていたい」と思いました。

彼は、『文学のふるさと』でも『恋愛論』でも、「孤独」という事に着目していました。「孤独」と聞くと、大概の人は、寂しいとか、悲しい、と言います。

ですが、彼のいう「孤独」は、自分は「人間一匹」として存在している、一つの生命体に過ぎない、という意味に思います。

それは、自分と向き合うために必要な感覚であって、自分一人でないと、自分を見つめる事も分かる事もない、と言いたいのだと感じました。

そしてこの感覚は、生きるという事において大切であって、『堕落論』の最後のまとめに繋がるものだと、私は思います。

 

閑話休題😅

まず、『私は海をだきしめていたい』は、海と女性が、彼のイメージの中で重なる作品です。

そして、

 

大手拓司『藍色の蟇』の『しなびた船』


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冒頭「海がある、お前の手のひらの海がある」で始まります。私は「お前=女性(もしくは女性的な存在)」だと思いました。理由は、彼の作中に男が出てきた事がなく(「私」という主人公として、自身を出す事はある)、他の作品で、「お前」と呼ぶ相手は、女性(花嫁、女性的なイメージで装飾された薔薇など)であるからです。

 

でも、この作中で「お前」が、女と指定されていない限り、絶対ではありませんし、例外的に男かもしれません。そもそも人でないかもしれません。

ですが、この後、三好さんの詩を読んで、「お前=女」(もしくは女性的なもの)ではないか、という考えが強くなりました。

 

その作品、三好達治『測量船』の『郷愁』より


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「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」

 

拓次さんは、フランス語の知識があったのか、私は知らないのですが、(彼の没後出版の詩集序文で、北原白秋氏だったか萩原朔太郎さんだったか、どちらかの序文で、「フランスの作品を読み〜」というような事が書いてありますが、根拠のない事なので、何とも言えません。)

仮にあったとして、「mère(母)の綴りの中にmer(海)がある」(正確には、アクサンの有無はありますが…)ので、「お前の手のひらの海」の「お前」は、イメージ的に、母/女性的なもの、と彼はしたのではないか、と考えられます。

 

因みに、三好さんは東大仏文科ゆえ、安吾さんもフランス語の知識があります。

 

さて、三好さんは、「母≒海」。安吾さんも「海≒女」とそれぞれ印象を述べていますが、拓次さんはどうだったのか?私の死後、お会いできるのであれば、聞いてみたいです😂☺️

フランス語の知識の有無を置いておいても、三人の残した、海の女性性にまつわる作品が大好きです💐

 

何とも言えない、柔らかい切なさ、優しさを覚えるためです。何故でしょうか、海の広さと、母の優しさを重ねたくなるような感じ、といいますか。それが私には得られなかったもの、というのも大きいと思います。

だから、母の愛を、広く、大きな海に重ねたくなる。こんなに大きくて、広い、母の、ないしは家族の愛情が欲しかったんだな、幼かった私は、と。

願望故に、大きくしてしまう。それも幼少期の純粋な心が得られなかった愛情故、寂しさも、純粋で、大きい。

 

昔であれば、初めて見る、珍しい土地の出来事が、摩訶不思議に語られる、あの高揚感。今はネットなどのお陰で、そのような事はなくなってしまいましたが、例えば、幼少期にわくわくした遊園地に、大人になって行くと、「あれ、こんなんだったっけ…?」と、白ける自分に困惑する気持ち。

 

その様な、まだ見ないものへの期待。もしくは、初めて見たり知る/知った面白さの醒めない状態の、あの高揚感は、対象を大きく、面白く見せますよね。あの感覚です。私の、母の愛情を大きく、広くイメージさせるものは。

でも、今はもう、届かない(得られない)と分かっているので、その大きさを、遠くから、眺める感じです。

幼い頃、欲しかったものは、あれなのだな、と。今の私が、海(母の愛情)と、それを見つめる幼い頃の自分を、眺めているのです。

 

広くて大きい、と言っても、「全肯定、無批判のイエスマン」という意味でなく、ただ、すっぽり抱きかかえてくれる存在。心の拠り所のような存在。だから、本当に間違ってる事をしそうになったら、怒ってくれる存在。そういうイメージです。

(朔太郎さんの『腕のある寝台』などの作品は、まさに私にそのような印象を与えました。だから、大好きです。)

 

特に、三好さんは、母という存在への届かない憧れ…得られなかった愛情を、大人になった今、振り返って、そっと唄うような雰囲気の作品がいくつかあり、その彼の感覚に心を寄せる読み方が、私の好きな、彼の作品の楽しみ方です。

 

私も海は、「母なる海」という言葉もあってか、生命が誕生した場所である海は、母/女性性を感じていました。そして、これらの作品を通して、より、女性的なイメージになりました。

 

海と女、母、女性性…文学はこういった、答えのない事を考えられる世界なので、大好きです。