文学 美術 音楽 旅行についての鶴岡万弓の日記

近代、現代初頭の文学と、彫刻、絵画、浮世絵、建築などの美術が大好き。音楽ならクラシック!旅も好き!(現在、オーボエ専攻の学生です) それらの大好きな芸術に関して思ったことや、旅の事を記録として残しておこうと思いました。 そうして、同じ趣味を持つ方と繋がれたら嬉しいな、と思いブログを始めました!旅の記録は、どなたかの役に立ったり、「行ってみたい」と思わせるほどにその土地の魅力を伝えられれば、幸いです🌷

ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して③ファンタジーが含まれる「信念」の芸術

【気づいたきっかけ】

モーツァルトのコンチェルト(第一楽章)を改めてさらっている時、やはり上手くイメージが掴めず、イメージ整理のために紙に書き出していました。以下、2023年2月18日のメモです。発想の経緯がうかがえます。

 

子供みたいに無邪気。開けた自由さ。でも柔らかく、優雅。滑らかだけどハリがある。小さくなく、大きく華やか。自信がある人。感情というより、「自分が好きな人」が、朗々と歌うような「自信」故のフォルテ。だから豊かで包む様なフォルテ。強いのではない。自信があるから、フォルテ。息をたっぷり使う。

自信があるから、「自分はこう思いました。」という事に対して、疑いを持たない。

 

堂々として声が大きいが、太い豊かな声だから、不快でない。その声色故に、ゆっくり話してるように聞こえるかんじ。が、録音して聞くと饒舌なのが分かるような。沢山話してるのに、うるさくは感じない。

言う事がポジティブで面白いけど、エゴ(辞書的な意味での主観)が見えるような人。自分を疑わないので。

だから、ここで語られる「気持ち」は、主観の感覚からのみ生まれた、「思ったこと」であって、「感情」ではない。気分の話。悪い人ではないけれど、私の苦手な人。「気分」!

「感情」とは、真実に触れた時/思う時に生まれる心の波(喜怒哀楽など)であって、ただ単に、「思うこと」「感想」とは違う。そうだ「感情」と「感想」は違う!

 

今まで出会った作品(登場人物)で、こういう人に出会ってない…?だから上手くイメージが掴めない?

私が苦手な人だから、上手く吹けない…?①そういう人に私がなりきって吹くか、②感情の感覚に持ってきて吹くか。でも②後者だと、本質するものが合わないので、上手くいかないor作者の意図と違う事をする不快が生じる。

なりきって吹くしかない…?

 

(*メモ補足:エゴイスティックなのは、悪い面だけでなく良い面もあると思います。子供が正しくそうだと私は思います。

「感想」を生む「気持ち」が、「気分」。なので、『「感情」と「感想」は違う!』という部分は、正確に言うならば、『「感情」と「気分」は違う』。しかし、作品という完成品は、気分の結果である感想の産物なので、作品から考察を進めていたメモの段階では、「感想」と言っている。

「感想」から遡って、「気分」を発見したので、メモの段階ではそこまで遡れていないという事。)

 

【信念の芸術】

これは、考察を進めるうちに思いついたものです。発想の経緯は、

①まず、理論の芸術と感情の芸術(朔太郎さんやニーチェのアイデア)がある

モーツァルトを理解しようとした時、その二分割では足りないと思った

③感想の芸術にも、大きく2つある。主観のみの「完全な感情の芸術」(=「気分」の芸術)か、客観も不可欠な、「客観という理論の芸術の要素を含んだ、感情の芸術」(=「感想」の芸術(狭義)

④ならば理論の芸術内にも、「完全に理論の芸術」、と、「感情の芸術の要素を含んだ理論の芸術」があるのでは

 

です。そう思うと、思い当たる節がありました。代表は、ワーグナーです。

 

【信念の芸術の代表者 ワーグナー

彼の作品は、「ライトモティーフ」と呼ばれるものが頻出します。ライトモティーフとは、登場人物やキーアイテムなどに、それぞれ音型/旋律を決めて、それぞれのモチーフとして表すことです。

なので、オペラで最もよく使われます。

 

そして、彼の表現したいものは、彼の想像する世界です。彼自身の感情ではありません。そうすると、「理論の芸術」という事になりますが、「自分の世界」という極めて主観的な世界を、冷静な「理論の芸術」と一括りにして良いものか。やはり、理論の芸術と一口に言っても、こちらも大きく二分される、と結論づけました。

冷静で、客観的に「美」を追求する、「理論の芸術」と、「自分の世界」という主観的理論が表現する「信念の芸術」。

 

【感情論と主観的理論の違い】

「自分の世界」という主観の世界。客観はいりません。ですが、「自分なりの理論で成り立った世界」であって、メインは感情ではありません。「個人の考え、価値観、ルール」から生まれた個人的理論と世界観ですから、客観的理論でなくとも、主観的「理論」で作られた世界なので、理論の芸術の方に入ります。

感情論と、自分の世界/ルール/価値観は、違うものです。感情で物事を考えたり、進めたりしたがるのが感情論で、自分の世界で考えるのは、個人の価値観などの判断基準があります。物事の判断基準が、感情か、個人的ルールか、という違いがあります。

 

つまり、自分の信念に基づいて作られたり、表現される芸術なので、「信念の芸術」です。

 

アインシュタインの言う「偏見」と合わせて】

彼は、「18歳までに身につけた常識を、偏見と言う」と表現しました。まさしくその通りだと思います。そして、これは、「信念の芸術」にも言える事だと思います。

何故なら、自分の世界、という「自分の常識から作られた世界」は、客観のない「偏見」なのです。なので、このタイプの芸術は危ない場合もあるのです。(正しくワーグナーもそうです)

 

ですから、本当は「確信の芸術」と言った方がいいのかもしれませんが(確信犯という言葉のイメージから)、全ての芸術家がそういう訳でもないので、「信念」としました。

むしろ、ワーグナーが例外的に強いだけのような気がします。何故なら、多くのロマン主義の芸術家や、ファンタジーも信念の芸術に入ると思うからです。

 

 

【ファンタジーは「信念」の作品】

感情でなく、世界観を表現する事が主軸なので、ファンタジー作品も、ここに分類されるのではないかと思います。代表は、ハリーポッターでしょう。あんなにも世界中で人気のある、「一人の人間の想像の世界の話」はないでしょう。多くのマンガもそうでしょう。代表は、ワンピースでしょうか。

あれらは、個人が想像した世界の話です。そして、その世界の話をするのがメインで、「その世界を想像する自分の感情」を表現している作品ではありません。なので、感情の芸術ではなく、理論の芸術に分類され、理論の芸術の内、信念の芸術に分類されるのです。

 

(マンガやファンタジー小説が、芸術に分類されるのか、という事に関して、現時点での私の中では結論は出ていません。

今は「表現におけるその方向性と、発想源」についての考察であって、そもそも芸術とは何か、ではありません。

芸術とは何か、というテーマは難しく、まだ考察の途中です。)

 

 

ミケランジェロは結局どっちか】

彼が、「自分の思う美」を表現したかったのなら、「信念の芸術」です。ですが、「これが私の好きなものです」という「好き」を作品に込めたのならば、「感情の芸術」です。

彼の作品は、同年代の他の芸術家達が残した作品より、情熱を感じます。(彼の作品は動きが大ぶりであったり、大胆であったり、斬新なポーズなものが多い)

ですから、私は、感情の芸術かもしれない、と考えたのです。が、その情熱が、「自分の世界の美」の表現へのものか、単純に人から何と言われようと、「好き」「美しいと思う」という感情表現なのかは、彼に聞かない限り、分かりません。

ですがそのように、色々な角度から作品を見ると、見え方が変わってくるので、私はそれを楽しんでいます。

 

 

以上で、私が考えた芸術区分の説明は終わりです!これは現在の考えであって、また変わるかもしれせんが、今の自分の考えをまとめるために、書き残しました。

私の考えはさて置き、ニーチェや朔太郎さんの芸術論を知っていただく機会になれば、嬉しいです😊

(周りの人でも、知ってる人に出会ったことがないので、意外とマイナーな事なのか、と私が驚いたのが、書こうと思ったきっかけでもあります)