ニーチェと萩原朔太郎の芸術論から発展して、「気分」の芸術、「感情」の芸術、「理論」の芸術、「信念」の芸術
モーツァルトのオーボエ協奏曲KV314を練習していて、タイトルの芸術の方向性を考えつきました。
この曲は、オーボエ奏者にとって一生関わる曲です。何故なら、オーディションやコンクールで必ず吹かなければいけない曲だからです…。
そして私はモーツァルトが苦手…。彼の言いたい事などはよく分かるのですが、いまいち私が表現しきれない。技術的にも難しいのですが、音楽が掴みきれていない、というのをずっと感じています。
彼の曲は、いつも新しいテーマが出てきて、「型や形式」(因みにこの曲の第一楽章は、ソナタ形式)というものをあまり感じませんし、和音もころころ変わる。気分で遊ぶ子供みたいに、元気で、目新しいものにわくわくする感じ。その子供らしい無邪気さ、というのは分かるのですが、私が吹くと、「頭で分かってる」だけで、なにか違う…。そう悩んでいました。
この記事①では、ニーチェの芸術論と、朔太郎さんのいう「主観/感情」の芸術と、「客観/理論」の芸術につて説明します。
【ニーチェの芸術論もしくは、プラトンとアリストテレス】
ニーチェの考えた、アポロン的芸術と、デュオニュソス的芸術。これは、私が中学1〜3のどこかで知ったことです。プラトンとアリストテレスの哲学についても、中学時代に(けれどもニーチェより前に)本で読みました。大雑把に言うと、
デュオニュソス的芸術≒プラトン的 です。後者は≒です。
名前から分かるように、アポロン(ギリシャ神話の太陽の神)的な方は、理論を大事にします。理路整然とした、「正しい」美。理性的で論理的な正しいものを「美」とする感じです。
一方、デュオニュソス(お酒の神様)的な方は、破壊、酩酊、混沌、といった「正しさ」とは正反対の所に「美」を見出します。感情的なものもこちらです。
一言でいえば、前者は理論。後者は感情論。もしくは、萩原朔太郎さんの『詩の原理』の表現で言うと、「客観」と、「主観」。
【プラトンとアリストテレス、萩原朔太郎『詩の原理』】
彼らの考え方については、前述の朔太郎さんの『詩の原理』にもでてきます。彼曰く、アリストテレスは客観的で、感情論を排除した、知性のみで物事を考えるのに対し、彼の師匠プラトンは、暖かい感情の靄によって包まれた知性によって、物事を考えるそうです。
因みに、大事な前提条件として、「感情=主観」と、朔太郎さんはしています。「感情のないもの=客観」です。
作者の辞書での定義、つまり、作者の使う言葉の意味やニュアンスをしっかり理解する(前提条件を一致させる)のは、読解と説明上で欠かせない事なので、説明しておきます。(『詩の原理』については、読後、記録に書きたいと思っています。読んだのはまだ半分くらい)
【この主観と客観の芸術だけでは、私には足りなかった】【その前に、音楽が「主観的芸術」である説明】
モーツァルトは前述の通り、自由な子供のような作風です。人柄も。彼は圧倒的に、「主観/感情」の人であり、「主観/感情の作品」を書きます。
ですが、音楽の面白いところは、理論で成り立っているところです。特に、和音と和音進行。形式は分からなくても、和音は、「明るい」「暗い」「いい響き」「不快な響き」など、誰でも分かるものですし、それ故に、そこには理論が生まれ、関係してきます。「こういう響きの後には、この和音。でないと気持ち悪い。」といったような、和音進行の理論です。
そういう意味においては、音楽では、理論が必ず関与するので、「理論の芸術」つまり、「客観の芸術」と言えるのでしょう。しかし、『詩の原理』において注意していただきたい事は、「感情の有無」が「主観、客観」を分ける要素という事です。音楽のリズムの舞踏的躍動感と、和音による感情的表現は、心を揺さぶりますよね。わくわくしたり、悲しくなったり。なので、音楽は鑑賞者の「感情」を動かすので、「主観的芸術」なのです。
音楽を構成するのに理論が必要なのであって、音楽によって、作曲者や演奏家が表現したい事が理論/理性論か、という事は別です。表現したい事が何か、または、鑑賞者が何を得るか、というので芸術の方向性を分類すべきだと私は思います。なので、音楽で鑑賞者が得るものは、「感情」。また、多くの作曲家が表現したものも、「感情」。したがって、「主観/感情的芸術」なのです。
【音楽の対局は美術、「客観/理論の芸術」】
因みに音楽の対局は、美術、と朔太郎さんはしています。美術は、理性的な美を追求する、知性に研ぎ澄まされた冷たい美。科学的研究の美。「客観の芸術」と言っています。そこに感情があっては、感覚を研ぎ澄まし冷静になる事ができないので、あってはいけない。との事です。
【例外】
音楽の中にも、美術的な理性の美が、美術の中にも、音楽的感情や興奮の美があります。これについても、朔太郎さんはしっかり説明しています。
有名な芸術家で私が例えると、美術的音楽は、バッハ。音楽的美術はミケランジェロ。
バッハの音楽は、緻密で、その理論の美に驚きます。彼の音楽は、学問的、数学的音楽の美。彼の言いたいことは、感情でなく、「音楽の理論の美」、だと私は思います。なので、「美術的」ないしは、「客観/理性的」音楽。
一方ミケランジェロの作品は、彼の嗜好が全面に押し出されていて、彼は作品を通して自分が「どんなものが好きか」という事を言いたかったように思います。彼の作品は「美」を突き止めるのでなく、彼の「好く」という「感情」を作品に込めている、という事です。
彼の作品は、「私はこういうのが好きだ!」という彼の自己表現、と言えば分かりやすいでしょうか。
(しかし、後ほど説明する、「信念の芸術」の方かもしれないです。まだ私の中で結論が出てない芸術家です)
結局、別記事で書こうと思っていた『詩の原理』の解説と感想のような序盤になってしまいました😅ただし、説明として必要だったので…!続きは②で🌷